税制や規制だけの問題ではないが、金融市場の国際競争力を強化するという政策と優遇税制は問題外とする政策とのギャップをどう埋めるのか、日本にはまだ回答する力がないように思える。
(1)この辺の事情はN 著『秘密口座番号』(N出版)に負うところが大きい。
(2)その内容は、職業機密に関する守秘義務を犯した場合は2万フラン以下の罰金もしくは6ヵ月以内の禁固刑に処する、というものである。
(3)現物株式市場と派生証券市場の統合を目指し、1999年にシンガポール国際金融取引所とシンガポール証券取引所が合併して設立された。
(4)2007年以降、シンガポールは欧米金融機関への投資を急増させており、2008年2月末までに417億ドルを注ぎ込んでいる。
因みにUAEは107億ドル(5)2000年のリストからは、「有害税制除去」を約束したバミューダ諸島、ケィマン諸島、サンマリノ、マルタ、キプロス、モーリシャスが除かれた弱の地域・国が掲載され、2002年にはそこから羽の国・地域が外れて、アンドラ、リベリア、リヒテンシュタイン、マーシャル諸島、モナコ、ナウル、バヌアツの7つの地域・国が残ったが、その後ナウルとバヌアシはリストから外された。
(6)ノーベル経済学賞の受賞者であるJが、為替市場での投機的な短期取引を抑制する目的で提唱した税制。
(7)本土復帰釦周年に沖縄振興特別措置法が制定され、その中で名護市が日本で唯一の金融特区に指定された。
現在では、高度金融人材教育やファミリー・ビジネス支援など、税制とは一線を画した金融事業の展開を進めている。
日本が大西洋両岸で構築された国際金融というシステムにはじめて触れたのは、江戸時代に始まった欧米諸国との交易を通じてのことである。
当時の日本は、金と銀がそれぞれ本位通貨として流通する金銀複本位制であった。
その金や銀が江戸時代に海外へ大量流出したのはよく知られた事実であるが、その背景には、前で述べた貿易や金融のグローバリゼーションがあった。
ポルトガルの日本到来、オランダの交易独占、英国のアジア支配といった4?肥世紀の欧州諸国の進出が、そして四世紀の米国による対日開港要求が、日本の閉ざされた金融に襲いかかる様は、まさに日本の金融力の相対的なひ弱さを暗示させる出発点であるといえよう。
江戸幕府は鎖国体制を敷きながらも、オランダや中国との貿易は継続しており、その交易は日本による輸入が中心であったため、対価としての金や銀が海外へ流出していく。
幕府は、貿易量の制限によって金・銀の流出に歯止めをかけようとしたが、その効果はほとんどなかった。
逆に、オランダは日本の金・銀によって東アジア交易を円滑に運営し収益をあげたのである。
当時、金融に関する知識や経験における彼我の差は比べるべくもなかった。
さらに幕末近くのペリー来航を契機として幕府は1858年に米国と修好通商条約を締結し、貨幣交換に関しても取り決めを結ぶことになる。
当時貿易決済に利用されていたメキシコ・ドル銀貨と日本の天保一分銀を1対1の関係とすることでいちどは合意したものの、その後米国の総領事ハリスは銀の含有量の違いを主張してメキシコ・ドル銀貨1枚に対して日本の天保一分銀は3枚という比率をもち出してその交渉を勝ち取った。
天保一分銀は重量にもとづく本位貨幣ではなく計数貨幣であり、ハリスの重量議論を認めたことには通貨認識の混乱があったようにも見られる。
さらには、日本国内の金銀比価が海外の市場実勢と大きくかけ離れていたことを利用され、海外勢の裁定取引を通じて日本にメキシコ・ドル銀貨が大量に流入し、金が流出していくことになった。
肥世紀以降、海外諸国での金と銀との価値比率は1程度であったが、日本の場合は1対5で金が相対的に安く交換されていたのである。
鎖国といいながらも「交易は継続して情報は遮断する」という偏狭な政策がこうした失策をもたらしたのは自明であろう。
江戸時代の金銀流出は情報戦の敗北であり、日本がその後の金融力を育成していくプロセスの始点としては、あまりに屈辱的な序曲であった。
通貨の問題は、昭和の時代に再び繰り返されることになる。
輸出を戦後復興へのカンフル剤としてきた日本に対し、米国が圧力をかけて円高調整を迫ってきたことは記憶に新しい。
こうして金融に関する海外の圧力は、いつも日本にネガティブな影響を与えるという印象が強まっていく。
その円高恐怖感はいまや日本社会の隅々にも行き渡り、円安になれば株価が上昇するが円高は日本経済を破壊するというステレオタイプの為替レート観が定着してしまった。
自国の通貨が高く評価されることを嫌い、市場で売られることを歓迎するというのは珍しい感覚である。
日本と同様に輸出競争力で経済復興を果たしてきたドイツは、通貨にプライドをもち、通貨安によるインフレをひどく嫌い、自国通貨高を歓迎する。
日本に特殊な金融観が蔓延したのは、国際金融という舞台に慣れていないせいもあるだろうが、金融と国益とを多面的にそして有機的に結びつけて戦略を練る土壌が育成されなかったから、明治時代の富国強兵戦略のなかで、1872年の「国立銀行条例」にもとづいて設立され始めた「民間銀行である国立銀行」が現代日本金融の原点である。
周知のとおり、その第1号が「 D 国立銀行」であり、後に T 銀行、D 銀行と改称し、現在の M 銀行に受け継がれている。
条例施行後、約7年間で第百五十三銀行まで設立されるなど殖産への意識に支、えられて銀行ブームが巻き起こった。
現在でもその当時の名前を残した銀行がいくつか存続している。
明治政府は、江戸時代の複雑な貨幣流通システムに加えて、戦争資金調達のため太政官札と呼ばれる「政府紙幣」を発行したり資金供給のシステムとして為替会社に「為替会社紙幣」を認めたりしたため、市中にはさまざまな紙幣が並存することになった。
これが統一されるのは、旧紙幣の整理とともに党換制度を確立させた1871年の新貨条例である。
発券業務は1882年に設立された N 銀行に統一されることになり、半官半民の資本構成で設立された Y 銀行が1887年に Y 銀行条例にもとづく組織に改編され、外国為替に必要な円資金は N 銀行が低利で Y 銀行に供給するという体制がつくられた。
つまり、国内金融は N 銀が仕切りながらも海外金融は Y 銀行が取扱うという棲み分けができあがった。
これが明治政府による国際金融プロジェクトの噴矢となる。
当時、外国貿易が外国人の手によってほぼ独占されていたのと同様に、貿易金融も日本に進出していた香港上海銀行やチャータード銀行などの外銀が圧倒的な力をもっていた。
それが転機を迎えるのが、日清戦争による賠償金の獲得である。
清国から、当時の一般会計歳出4年分に相当する約3800万ポンドという巨額の賠償金を得て、Y 銀行のロンドン支店がその取扱いを委託される。
これを元手に日本は金本位制に移行するが、Y 銀行も貿易・為替業務を外銀から奪って拡大するとともに、日露戦争戦費調達のために募集された外債の引き受けや、中国各地への出先機関の拡張、また満州では発券銀行としての役割を果たすなどへ日本の外交路線に密着した戦略を展開することになる。
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